戦国時代の流行歌を作った人物 ~ 高三隆達 ~
作者の名前は「高三 隆達(たかさぶりゅつたつ)」。
(写真は後代に描かれた隆達肖像画。顕本寺蔵)
歌謡の名前は「隆達節歌謡」または「隆達小歌」と言われています。
実は隆達の生涯を纏まった形で正確に伝える文書がなかなか無いので、各史料を総合的に捉えた説でご紹介いたします。
隆達は室町時代の大永7年(1527)、現在の大阪府堺市に生まれました。
生家は有力な薬種商「高三家」だったと伝わっています。
その家の末子として育った隆達でしたが、商売を継ぐ立場ではなかったので、早くに仏門に入ります。
隆達は出家して、高三家が信仰していた法華宗・顕本寺に僧侶として居住しました。後に隆達は、顕本寺の境内地に高三家が建てた「高三坊(こうさんぼう)」という塔頭寺院の住職になります。
隆達が僧侶になってから数十年の後、兄が亡くなり本家を幼少の甥が継ぐことになりました。隆達は家業を補佐する為に僧侶を辞める、いわゆる還俗をします。
還俗した時期は正確には分かりませんが、隆達が「羅漢講式」という仏教書を書写したものが伝わっており、これを書写した年代が天正16年(1588)となっていますので、少なくとも天正16年頃までは僧侶として生活し、その後の天正末期から文禄年間に還俗したと思われます。
還俗した後は本家の商売を補佐する傍ら、僧侶時代に会得した声明や、その時に学んだ和歌や古歌に節を付け、時には自ら詞を作って節付けをし、自分流の歌謡を作り上げました。
また隆達は書にも通じ、隆達の書風は「堺流」と称されました。
隆達は自らが作り上げた隆達節を歌ったり、歌本にして交流がある人に贈ったりしていたようです。
隆達節はたちまちに評判になり、歌本を所望する人が数多く現れました。
上層の武士や町人の間で人気になり、また口づたいに世間に広まった結果、巷の流行歌となっていったのです。
時の権力者であった豊臣秀吉にも召し出され、御伽衆に名を連ねたとも伝わっています。
戦国の激動から新たな時代の幕開けへと変化する世を生き抜いた隆達は、慶長16年(1611)11月25日、85歳の長寿で没しました。
自分の想い、そして時代を生き抜いた多くの人々の想いを歌に託し、一大流行歌を作った隆達は、現在顕本寺の境内地に静かに眠り、平成の世を見守っています。合掌