寺院の歴史
顕本寺は山号を常住山と号し、室町時代の宝徳3年(1451)法華宗再興の唱導師である日隆聖人が67歳の時に創建されました。以来570年余りの歴史を刻んでいます。日隆聖人は、京都・本能寺や、尼崎・本興寺を創建の後、さらに「法華経・本門八品」の教えを広宣流布せんとされました。その当時、堺は港町として貿易が盛んで商人や武士の出入りも多く、非常に繁栄していました。そこで日隆聖人は堺での布教を志し、幾度も足を運ばれました。『両山歴譜』には永享11年(1439)頃より堺へ布教に赴かれていたことが記されています。したがって早くから処々に法華宗の信者がおり、顕本寺の基礎が出来上がっていったと思われます。そして豪商の木屋某と錺屋某ら篤信者の寄進を受け顕本寺が創建されました。『両山歴譜』には、
「泉南堺の信男、木屋何某・錺屋某合心して、遂に自宅を転じて本門の霊場と為す。師(日隆聖人)開堂す。今の顕本寺これなり。」
とあります。日隆聖人は伯父・斯波義盛の子である本成院・日淨上人を顕本寺に常駐させ、堺方面の布教を命じました。その後日淨上人は堺の布教に力を注ぎ、南河内方面へと教線を広げていきます。
顕本寺は創建初期、甲斐町東山之口筋の一角、開口神社の西側にあったと推定され、塔頭11ヶ坊、100余の末寺を擁していたと伝えられています。享徳2年(1453)の本山文書には「南西国末寺頭」との記述があり、また天文5年(1536)の天文法華の乱に際し、京都・本能寺が堺にある当寺に避難していることから、宗門内でも重要な位置づけにあったことが覗えます。
大永7年(1527)には堺幕府が成立し、当寺は5年間続いた堺幕府終焉の地となります。堺幕府滅亡時に当寺で自害した、堺幕府の中心人物・三好元長の墓所が境内にあります。その後、元長の子である三好長慶が亡父25回忌の為に、当寺において法華千部読誦・千部書写の法要を修したという記録が残っています。
その他に隆達節歌謡の創始者で、当寺の塔頭・高三坊の住職だった高三隆達の墓所と碑石があり日々参詣が絶えません。隆達は近世日本歌謡(小唄・長唄・哥沢・歌謡)の元祖と言われ、現在520余首の歌が確認されています。隆達節は隆達自身の天性の美声と独特の節回しで天下に名声を博し、戦国時代の流行歌として親しまれました。当時、都で流行した有名な一節に、
「面白の春雨や 花の散らぬほど 降れ」
等があります。大阪夏の陣による戦災後、宿院町に移転していた当寺は、昭和の大戦によって再度戦災に遭い、伽藍・寺宝が悉く烏有に帰してしまいました。その後、昭和33年に仮本堂が再建されました。昭和46年には講堂が建立され、仮本堂再建以来45年後の平成15年に現在の平成新本堂の落成を見ることができました。新本堂の設計は日本を代表する建築家、東京大学名誉教授の内田祥哉先生が担当され、大屋根には奈良飛鳥のお寺を彷彿とさせる金色の鴟尾が八方に輝き、一層の風格を放っています。
■顕本寺(けんぽんじ) 略歴
宗派 | 法華宗(本門流) |
---|---|
本尊 | 日蓮大聖人奠定の南無妙法蓮華経(十界勧請の大曼荼羅) |
仏像 | 題目宝塔・釈迦牟尼仏・多宝仏 |
山号 | 常住山 |
創建 | 宝徳3年(1451) |
開基 | 日隆聖人 |
1451年(宝徳3) |
日隆聖人が、木屋某・錺屋某ら篤信者の寄進を受け顕本寺を創建。
日淨上人が常駐し布教にあたる。塔頭11ヶ坊。
創建当時の場所は、甲斐町東山之口筋附近と推定。
|
---|---|
1453年(享徳2) | 本能寺・本興寺の南西国末寺頭に定められる。 |
1527年(大永7) | 三好元長・細川晴元らが足利義維を擁立。堺幕府が樹立される。(~1532) |
1532年(天文元) | 三好元長が、細川晴元と手を結んだ一向一揆に攻められ当寺で自害。 |
1536年(天文5) | 天文法華の乱後に、京都・本能寺が堺にある当寺に避難する。 |
1556年(弘治2) | 三好長慶が当寺において亡父25回忌の為、法華千部法要を修する。 |
1586年(天正14) | 豊臣秀吉より寺領27石の朱印地を許される。(御朱印寺領) |
1611年(慶長16) | 高三隆達(隆達節歌謡の創始者)寂。諡号は自在院隆達。 |
1615年(元和元) | 大阪夏の陣によって焼失。 |
1622年(元和8) | 宿院町に移転し、本堂が再建される。塔頭5ヶ坊。 |
1862年(文久2) | 当寺第24世事妙院日然上人、寂。八品講運動に尽力。著述多し。 |
1945年(昭和20) | 戦火により伽藍悉く焼失。 |
1958年(昭和33) | 本堂を再建。 |
1971年(昭和46) | 講堂を新築。 |
2003年(平成15) | 平成新本堂を建立。 |